型(定型)から自由へ



                     高野圭介

 型の文化
「型があって、その上で個性が発揮する。それが教養ではないか。」
狂言師の野村万齋の言葉である。



 狂言師も型から入り、礼儀、作法などを身体的感覚とすることを説いている。
型の文化は人を潤し、育てる。

                     「よみうり寸評」より抜粋

 自由の謳歌  
 一方、型に填めると自由が奪われると感じられる。
 では、型と自由は相反するものだろうか。

否、型があってこそ自由が謳歌されるものなのだ。

元来、自由には某かの辛抱が要るし、莫大な対価が払われる。
恰も、
民主主義は選挙を始め、膨大な必要経費が支払われているように。

 論語の一節  
大方のパターンは、
ものの仕組み・型を知り、好きになって取り組む。
そして練り上げた技能を駆使して自由に存分に楽しむ。




 論語の一節に曰く

「之を知る者は之を好む者に如かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず」

 囲碁の個性
 之を思うに、卑近な例として、我が愛する囲碁を取り上げる。

 手ほどきから、部分を知り、全体に目をやり、理屈を覚え、実戦で鍛える。
この課程では先人の足跡とか、定石化された変化や手順の妙など、
形通りの学習を重ねるのが第一段階。

 碁が好きになって、実戦で実力が養成されていく。それが第二段階。

そして、いよいよ最後の第三段階は、
 個性が加味され、個性的なものが現れてくる。ここに、
自分の意志の基に自由に局面を操り、存分に楽しめる。



 
この課程を一足跳びに短縮できるのが超人であり、天才である。
しかし、天才といえども努力無しでは成就しない。
途上で挫折してしまうことさえある。


 囲碁観が

止揚され

 
「量は質を規定する」ということは、
量が飽和点に達し、超えてくると、質的な変化を起こす。

 これは碁の学習の量と質の問題でもあるが、
質の問題として言えることは、「碁とは何だろう?」と、
碁に対する問題意識を追求を繰り返すのが大事だ。

禅問答のような「そもさん」=作麼生「どうやって」
「どんなふうに」のような形で、深く携わって、
「これが碁なんだ!」と一定の理解を得ることがある。




作麼生=そもさん

それを繰り返していると、自分の
囲碁観が止揚されていくことになる。
やがて、個性的とか自由の境地に立ったとき、
幽玄の世界が待っていると言えるのだろう。

 碁は楽しい
 面白いことに、
碁は初心者から高段者に至るまで、どの階層の人達も
欠かさずどなたも「碁は面白い。碁は難しい。碁は楽しい。」と
いろんな捉え方で碁に没頭し、楽しんでいるのである。